堀尾 藍 (INDIGO MAGAZINE 編集長)
本記事は戦争体験者であり、日本の教科書の出版社に長年勤務をされた前澤明先生へのインタビューである。
<背景>
1945年9月22日にアメリカによって設立されたCIE(Civil Information and Educational Section)は、占領終了となる1952年まで日本の教育全般を検閲した。
検定の手続きは、「原稿審査・校正刷審及び見本本審査の三段階を得て完了する」とあり、検定のために1.教科用図書検定原稿審査書 2.原稿 3.原稿の英訳(GHQ/CIEの検閲用の英訳原稿) 4.挿絵 5体裁見本、が必要であった[1][1]。つまり、検定教科書を作りにあたり、かなりの工程が必要となっていた。
Q1:戦前の日本の教育はどのようなものだったか?
大 正デモクラシーにより、児童中心主義、つまり子どもは子どもらしくあるべき、という概念ができる。ペスタロッチやフレーベルも同様で、大正から昭和にかけ てその傾向が見られた。日本も押し付けの教育ではなく、自由主義的な教育を主張されるようになる。このような動きがフレーベル館を通して見られるように なった。占領軍であるアメリカが思っている程、日本の教育が酷かった訳ではなかった。しかし、戦時中は、相当酷い軍国主義の教育に突入するのである。
Q2:どうしてアメリカはCIE(民間情報教育局:Civil Information and Educational Section)を通して日本の教育に検閲をしたかったのか?
教科書で学んだ若い世代の生徒達が戦争を支える。当時の日本は軍国主義で、今で言う北朝鮮のようであった。日本はGHQ/CIEによって自由主義的な考えを持つようになったと思われているが、戦前から『赤い鳥』で有名な北原白秋のような自由主義的な考えを持つ者はいたが、戦争によって言動に規制ができてしまった。
再び軍国主義にならないように検閲が行われたのである。
Q3:なぜGHQは日本にだけこのような厳しい統制を敷いたのか?
昭和20年(1925年)7月26日に日本がポツダム宣言(The Potsdam Declaration)を受諾し、無条件降伏をしたため、GHQ/CIEが 検閲するようになった。ドイツではドイツ人自身によるナチスに対する反対勢力があったが、当時の日本には政府に反対する勢力がなかった。イタリアの場合は 詳しくは分からない。この違いによって、日本に対するGHQの統制が他の敗戦二カ国と比較してより厳しかったのではないか。
日本は昭和3、4年から敗戦まで、各中・高等学校に対し、退役した将校1名が派遣され、教育の統制を実施していた。これを不服とし、大正期に学んだ教師達が大正デモクラシーを起こしたのである。このことも念頭に置く必要がある。
<インタビューを終えて>
戦 後、日本の教育はアメリカによって子どもの視野を踏まえた教育がなされた、と考えていたが、既に戦前からリベラルな考えが議論されており、それが戦争に よって日本政府によって弾圧された、ことが分かる。戦前の日本の良い教育、慣習を見直すことは重要であり、検証していくことは重要である。
発展途上国の教育開発を研究することにより、日本の教育政策が如何にしてアメリカによる影響が大きいか、比較できる。
■前澤明(まえさわ あきら)
1939年(昭和9年)生まれ(80歳)。1958年から1971年まで大手教科書の出版社に勤務し、検定教科書の編成に携わる。その後、30年間国語教師(開成高校)として教鞭を取る。検定教科書出版社の有志と共に元CIEによる教科書編成メンバーの活動を纏める。
* 本記事の文責は堀尾藍にあります。
参考資料
・山本武利「GHQの検閲・諜報・宣伝工作」(2013)岩波現代全書
・ 吉田裕久「戦後初期検定国語教科書の研究」『広島大学大学院教育学研究紀要』 第二部 第61号(広島大学 2012,p.93-102)
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