6.09.2013

干ばつの国に起こった洪水 ~ブルキナファソ・ワガドゥグにて~

清水貴夫(日本学術振興会 特別研究員、名古屋大学大学院文学研究科 博士後期課程)
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2009年夏、私は調査のため、ブルキナファソ、ワガドゥグ市に滞在していた。いつものごとく、I氏のお宅に居候している。日前にNGOのスタディ・ツアーで来た大学生のK君も一緒だった。91日未明、雨が降り始めた。午前3時ころだった。前日少々飲みすぎたものの、トタン屋根に落ちる雨の音の大きさに7時前に眼が醒める。ちょうど同じくらいに目を覚ましたI氏も同じく雨の音で眼がさめた、と言う。
これから2週間ほどまえ、I氏が経営する居酒屋は、やはり豪雨のため床上15㎝ほど浸水している。なんとなく不吉な予感を感じながら、朝のコーヒーを飲んで外を見守っていた。
7時。家の前の側溝から水が噴き出す。
壁が「穴あき煉瓦」であるため、刻銘に外の状況が見える。こうなると水の勢いは早い。ものの15分で家の中まで浸水する。K君を急いで起こす。眠そうな目をこすりながら、なんとか状況を把握してくれた。我々3人はパソコン類を高い所に上げ、コンセントを抜き、マットレスを挙げる。荷物もすべて高いところへ。
そうこうしているうちに水はくるぶしの高さからひざ下へ、そして、ひざの高さも超える。家の中にたたずんでいたが、雨は一向に止む気配がない。
水の圧力で重いドアを開け、テラスに出てみる。ガードマン氏も怪訝そうな顔をしながら、つぶやく。

「いつまで降り続くんだろう…」
                写真1 居候宅の前の様子
時間はすでに9時近くになっていた。

預かりもののK君を残し、I氏と外に出てみよう、ということになる。その前に、友人のCが様子を見にきてくれて、「危険だから外にでるな」といわれたのだが…
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確かに、煉瓦の隙間から、すでに前の舗装道路は川のような状態になっている。側溝が見えないどころか、たまに前を通る四輪駆動車はタイヤの半分くらいまで水に浸かっている。家の一番低いところよりも780㎝ほど高いところが川のようなら、玄関口の一番低いところは身長180㎝を超える私でさえも腰のあたりまでくる。目の前の道路は激流と化している。西側から東側、北側から南側が低くなっているらしく、いちばん深いところでは、足を取られそうになる(写真.1)。そして、私の参加するNGOの事務所があるのが、写真.2のあたりである。こちら側のほうが多少低くなっているらしく、北側からの水がすべてこの道に集中する。事務所も完全に水没、隣のドイツ人夫人のお宅も水没。日本が支援した消防車がここに駆けつけ、ロープを持った消防士が彼女たちをロープに巻きつけて水のないところに誘導する。
               写真2 濁流と化する道路

                写真3 家屋に侵入する濁流
周囲で雷が落ちたような音がしだしたのは、10時ころからだっただろうか…初めは何の音だかわからなかったが、こうして外に出てみて、やっとその正体が分かった。その音がするところには、ひとが集まっている。その音の正体は家がつぶれる音だった。
「バンコ」と呼ばれる、日干し煉瓦は一つ25Fcfa。コンクリートの入ったブロックが一つ250Fcfaだから、ずいぶん安いことがわかる。バンコはコンクリートが入らない分、目が粗く、気温が高いこの地方ではよく使用される建材である。安いこともあり、特に所得の低いひとが住む家がバンコで作られている。乾燥し、暑いこの国に適したものだと思われていた…しかし、今回の雨は、これらの家を見事に破壊した。密度が薄い分、また粘着度が低い分、バンコは水にはもっぱら弱い。
                 写真4 Pont Mogho Naaba  
                        

2日の新聞各紙はワガドゥグの洪水被害を大きく取り扱った。
各紙の報道によれば、次の通りであった。「朝3時ころから降り始めた雨は14時ころまで降り続き、ワガドゥグの街の多くで床上浸水した。約半日間の総雨量は246mmで、ブルキナファソ観測史上最高の雨量となった。これまでの最高雨量は、1919年までさかのぼり、ボボ・ディウラッソで降った213mmで、90年ぶりの降雨量となった」。各紙、国立病院の水没や、多くのバンコの家の危険性などを競って伝えていた。
こんな記事が出た2日には、私たちは市内で被害がひどいと言われている何箇所かを回った。写真.4の橋はワガドゥグ市を南北に流れる運河にかかる3本のうちの1本である。ワガドゥグ市の西側の住宅街と官庁街、オフィス街をつなぐ大動脈の1本である。この橋のことは 構早くから周りの人間が知っていて、相当な人数の見物客がいた。警察(中国の警察のユニフォームを着ている。なぜか)が56人いるが、どちらかと言うと、私を含む見物客の整理に当たっているように見える。もちろん、無茶なことを言う輩もいて、この危なっかしい橋をバイクで渡らせろ、という交渉をしていた。
さらに、その数日後、所用でワガドゥグの南に位置する村に行った帰りに、数千人が家を失ったという地域を訪れた。洪水が起こった後、3日間連続で私がかかわるNGOの事業地に行く用事があった。その初日、事業地への道のり、調度今回の水害の被害が最も酷いといわれた地域の横を通る。チラチラとそちらの方を見ていると、道沿いにある小学校に人だかりが見える。スタッフに「(現場を)見れないか?」と聞くと、「許可がいる」とのこと。しかし、翌日、再び同じ場所を通りかかったところ、同じスタッフが「テレビで(現場の映像を)見たから入れるはずだ。ジャーナリストのふりをして行こう。」ということで、2日目にこの地域に潜入した。
写真456がこの地域の様子である。つい最近まで村だったこの地域は、ワガドゥグ市の拡大とともに、ワガドゥグに取り込まれた過去を持つ。「周縁」という言葉がしっくりくるこの地域には、安いバンコ(日干し煉瓦)づくりの家屋が多く、ほぼ壊滅。「崩れた」と言うよりもむしろ「流された」とか「溶けた」という表現のほうがしっくりくるような惨状だった。この2枚の写真の地域は、この地域でも少し奥まったところにある。写真5の左の方、東側に小さな溜池があるらしい。西側の幹線道路は高く作られており、この舗装道路から、この地域にかけてひたすら下っている。つまり、一番低いところにため池があり、その中途にこの地域があるということになる。しかし、高低差は普通に生活していてはわからない。家事で使う水が流れる方向でかろうじて知るくらいだろうかいずれにしても、普段の生活からは、想像もつかない被害に襲われたことになる。私たちが訪れたこの地域は、200m四方、ただの一軒の家も生き残っていなかった。
そして、次の写真5は、というと、住民が瓦礫を掘っているところである。洪水時の水のスピードは凄まじいものがあり、取るものも取りあえず逃げ出したそうだ。家財道具、金、貴重品が瓦礫の下に眠っている、という。私たちが訪れた時にはわからなかったが、朝晩は警察がこの瓦礫の地域を保護していたという。火事泥棒ではないが、混乱のどさくさに紛れた盗賊の出没に備えたも
のという。
                 写真5 「溶けた」家屋①

                写真6 発掘作業(?) 
この地域の中心にある小学校の校庭には、すでに「UNICEF」の文字の入ったテントが立っていた。医療活動をしているとのことだった。洪水はただ水があふれ出るだけでなく、ヘドロやトイレの汚水もそこに混じる。汚水が混じった後に警戒しなければならないのが、コレラなどの伝染病である。寝床が奪われ、食糧も不足すると、人びとの体力が奪われる。この状態で伝染病にかかるとバタバタと死人がでる。UNICEFの対応はさすがに早かった。翌日には被害のひどかったサイト数か所で活動を始めていた。また旧宗主国のフランス、さらに今年4月に開館した日本大使館の反応も迅速だった。日に日に支援の手は行き届いているように見えた。

                写真7 「溶けた」家屋②

 この洪水をめぐり、いろいろな話を見聞きした。その中のいくつかのエピソードを紹介してみようと思う。
ジョーという友人がいる。妻と子ども2人の4人家族である。仕事は楽器の製造、販売だ。時に路上で土産物を売ることもある。                                       
                                                                      
この地域に住むジョーの家もやはり倒壊した。数日後、彼は路上にいた。金がいるのである。これまで、私に「たかり」をしたことはなかったが、事態が事態、おそらくプライドを捨てて長年の友人に「たかり」を試みた。しかし、残念ながら私は人類学の調査者であり、NGOワーカーだ。ただでは渡すつもりはない。根ほり葉ほり聞く。その時はどうも、とにかく「金」が必要だった。その時に聞いたのは、ちゃんとみんなで復興を計画しているのか、どんなことをしているのか、ということだったが、彼の答えは何もしていない、だった。彼一人に金を渡すことの危険性は十分に分かっている。私が一時的に「物乞い化」した友人に付きまとわれるだけでなく、混乱状態の中では、彼自身にも問題が起こると感じ、「まずはグループを作って、自分たちでバンコを作ってはどうか。」という話をするにとどめた。ジョーは恨めしそうな顔で私を見たが、私も被害者である、と言うと、おとなしく引き下がった。しかし、またその数日後、ストリートで彼に会った時にはずいぶん晴れやかな顔で、「みんなでバンコづくりを始めた」という報告を受けた。そこで初めて約400円を彼に手渡した。一外国人がおこがましい話だが、自分たちの生活をどうするかを他人頼みだけではどうしようもない、と思った。今、彼らに必要なのは、自分たちがまず何とかしようと努力すること、そして、彼らを心配する人がそばにいることを認識してもらうことだと思ったからだ。
 多少冷たい応対であったことは反省しなければならないが、この短いエピソードにいくつもの象徴的な言説が含まれている。それは、ここに住む人の外国人観であり、災因に関する考え方であり、グルーピングに関する行動様式であり、周縁地域での社会構造で、それぞれが断片的に表れている。近年、都市の周縁に形成されたこうした地域における脆弱な住環境は、一方で「近代的」な都市計画による住民の都市周縁地域への押し込みが見られる。どうも、こうした地域で脆弱なのは家屋だけではないようだ。新たにそこに住み始めた人びと同士では、協力して困難に立ち向かう土壌もできていないのである。
100年ぶりの大雨。明らかに自然災害である。まさかのことが起こっただけ。ただそれだけである。干ばつの国で、洪水被害は予想しない。乾燥への対策が立てられているとも思わないが。しかし、水害へのインフラの不備やらといった行政の責任を問うのは酷なように思う。
それにしても、人間というのは、なんらか不満を持っていないと生きていけないのではないだろうか。私は文化人類学を専門としており、人と話すことが調査の一環である。もちろん、干ばつの国で洪水が起こるという、世にも珍しいことがあれば、とっつきにくい人ともいきなり共通の話題があるから、ちゃっかり利用させてもらったりする。しかし、実際に被害に遭った人に当たってしまったときは、なかなかシビアな話を聞くことになる。そして、果たして何かで報道があったのかどうかわからないが、友人の口の端々に水害と政治の間の関係を言いだす者が出てきた。たとえば
「世界銀行や国連から援助資金が来たらしい。しかし、被害者へは全く渡らず、すべて政治家が横領している。」
とか、
「なぜ、立体交差(注1)なんかつくったんだ。その前にバラージ(溜池)をつくっておくべきだったのではないか?水の管理はこの国にとって最大の課題なはずだ」
と言ったもの。いくら迅速な対応をしたところで、翌日に援助が行き渡るわけもない。意外にシリアスな災害の少ないブルキナファソ。誰が自分たちを守ってくれるのか、自分たちがどのように政治に参加するのか、という議論は今まで非常に少なかった気がする。なにはともあれ、政治も自分の家も食べるものも、まずは自分たちの手で何とかしてみよう、という試みが重要なのである。
市民が汚職を嫌悪するのは、日本の政治不信によく似ている。事件や事故の責任を行政や政府、公務員に押し付ける、あれである。こんなのは、困難がおこったことの責任の転嫁に他ならない。もちろん酒場で繰り出されるこんな話に水を差すような野暮なことを言うつもりはない。だが、それだけでは何も動かないことは、それぞれが重々承知しているはずだ。
今、目の前に友人や親せきが家を失い、ともすると命を落としている。援助機関は、実に迅速に対処をした。コンパオレ大統領以下、政府要人も動き出している。ただ、ジョーが話してくれたような、住民自身の動きがあれば何よりもよいと思う。援助がいくら来るよりも、ずっと立ち直りも早いだろうし、未成熟な新しいこの地域の新たな関係性も生まれ、この災害がきっかけとなって新たな展開が期待できるだろう。
(注)昨年、市南部にブルキナファソ初の立体交差が完成した。この立体交差は日本の援助米を打って建設されたもの。ちなみに、この援助米の売上は当初の予定通り、ブルキナファソ政府が自由に用途を決められるものだった。 


■清水貴夫
名古屋大学大学院文学研究科 博士後期課程所属
日本学術振興会 特別研究員
-->専門は都市人類学。都市(ブルキナファソ ワガドゥグ市)の若者の動態に焦点を当てた都市空間の研究を行っている。また、NGOワーカーとして関係したNGO多数。
TAKAO SHIMIZU
PhD. student, Graduate school of Letters
University of Nagoya
Fellow of the Japan Society for the Promotion of Science